2014/12/27
言語について
言語について
以前どこかに書いた覚えがありますが、ことば・言語は何のためにあるのか
それは「自分の気持ちを伝えるための道具」であるということ
要は伝われば言語でなくても良いわけで
勿論、完璧な言語でなくても良いということです
日本人だけなのかわかりませんが
言葉をしっかりと話せないといけないと思っている方がいます
吃音症を抱えた方の支援のときにご本人から教えていただいたことも未だに残っています
「多くの人たちは吃音症の人を見たり、聴いたりすると優越感を感じるというデータを出している論文もあるんですよ」
言葉をうまく使えないことはそんなにダメなことなのか?
僕は言語聴覚士の臨床で言語障害を抱えた多くの方々を見てきましたが
皆さん一生懸命伝えようとしてくれました
僕も一生懸命に理解しようとします
伝えたいことは、起こったエピソードなどではなく
そのときにどんな「気持ち」なのかということです
それはとてもシンプルでわかりやすく
単語でも伝わるくらいのものだったりします
「楽しかった」「嬉しかった」「好きです」「愛しています」
「嫌だった」「悲しい」「寂しい」「嫌い」「苦しい」「つらい」
子どもが発するようなそんな気持ちのことば
言語は知的な側面を表すといわれますが
言葉がうまく扱えないことにより
その知的側面が不足しているまたは欠如していると思われることもあるのかもしれません
しかし、本来の言葉の役割、言語の役割を正せば
「気持ちを伝えるための道具」であるので
複雑な文章を理解する、話す、読む、書くことではないはずです
言語聴覚士の方はわかるかもしれませんが
コミュニケーションには言語的・非言語的な要素が組み合わさっています
「あ」という音だけでも何となく気持ちが伝わることがあります
ここでは文字表記するしか方法がないので文字で表記しますが
「あっ!」「あ~」「あ・・・・」「あぁ~!」
こんな発音の仕方だけでも何となく伝わります
あっ! といえば何か気づいたのか、驚いたのか
あ~ といえば何か察したのか、そうだねという意味があるのか
あ・・・・ といえばまずいな、間違ったかなという不安要素が
あぁ~!といえば深い納得、同意のような気持ちが
面白いことに「あ」だけなのにも関わらず伝わる気持ちがある
それは、そこに含まれる「非言語」の要素がコミュニケーションの多くの部分を占めているからです
いわゆるプロソディという部分です
ここからも言えることは
「ことばを正しく、標準スペックで使えないことがダメではない」ということ
英語でもフランス語でもオランダ語でもドイツ語でも韓国語でも。
発音がどうであっても、語彙が少なくても
文字が書けなくても、読めなくても
コミュニケーション・意思疎通において大切なことは
「気持ち」を伝えることだという本質からブレなければ
極論、何でもよいということになります
この考え方で様々なものを見ていくと
いかにどっちもよい・何でもよいものが多いことがわかるはずです
私たちは「~でなければならない」という
いつの頃にか刷り込まれた思考に沿って判断していることに気づくかもしれません
発音が気になった・言い回しが気になった
選んだ言葉が嫌だった・言われた内容が気に食わない
そこに拘っている理由は何か
~でなければならないと思って譲らない理由はなんでしょうか
誰かを非難したくなったとき、または非難した、批評したとき
あなたの中にどんな気持ちがあって、何が気になってその行動に出たのか
自分を認めてあげること - 東京リトリートより
良い悪いではなく、そう思っている自分がそこにいて
そこに自分はいつも拘るんだなと知ってあげることがもっとも大切なことです
そこを修正しなければならないわけでもなく
そのままでもOK
拘りぬいて生きていくことだってOK
その拘りは「あなたらしさ」につながっていくものだと思っています
お互いに「違い」を認め、距離はあれども境界をつくらないこと
自分の生きるスタイルを保っていくこと
そんなことを再認識している今日この頃です
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御前崎 Natural Style
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