2015/01/13
生きることと死ぬこと - 死生学カフェに参加して
生きることと死ぬこと - 死生学カフェに参加して
先日の死生学カフェ
主催の浅原聡子さんもBlogに書かれていましたが
学問ではなく、学ぶという意味の「学」
創設記念ということで哲学の講演があったので学問というイメージがあったかもしれませんが
講演を通じて個々それぞれに感じる「生・死」を深めていこうという学びの場
僕はどんな目的でこの場に来たのか
「生きることを支援するため」
と思っていたのですが・・・・
講演を聴いたり、帰路の車中で考えていたら
生きることと死ぬことは一方通行ではなく
双方向なんじゃないかなと
生きる→死ぬ
生きる←死ぬ
ではなく
生きる⇔死ぬ
死を全うするために生きる
生きていることを実感するために死がある
そんなニュアンスです
あくまで僕自身が感じたことです
生きている以上本物の「死」は自分では体験できない
誰かが亡くなったという体験しかできない
生きている以上「死」を想像することしかできません
だから
いつか確実に死ぬことを前提に「今」をどう生きるか
どう生きたいかと思っているのか
思考に左右されずに自分のお腹の中のほうで感じるような
「~したい」はなんだろうか
今・ここに生きている人生はおそらく1回だけです
次はどうなっているのかわかりません(虫になるのかもしれないし、また人間なのかもしれない)
同じように以前はどうだったのかもわからない(虫だったのかもしれないし人間だったのかもしれない)
そもそも過去・未来はわからなくてもあまり支障はないように思います
今が連続しているのだから
今という点より後ろはもう過去
今という点から先は未来
どんなに過去を思い出しても、未来を思い描いても
今という点から後ろか前かみたいなものなので
結局、今をどう生きるかだけで良いということになります
過去できなかったことは今やりたいと思うだろうし
こんな風になりたい、こんなことをやりたいは
未来の自分を想像した今の自分が思っていることだから
「あなたのしたいことは何ですか」
そのために何をしますか
その先には何がありますか
とても壮大なスケールでもいいと思う
現実的でないと思われそうなことであっても
今ここでそれに向かって現実的に何をするかだけで
その壮大な自分の世界を実現することに確実につながっていくのですから
「いや~僕・私の人生、まんざら悪くなったな」
「これもあれもできて、あんなこともこんなことも伝えられてよかったな」
死ぬ間際になってどんなことを思うかなんて結局わからない
でももう死んでしまうのだから「あぁ良かった」って思いたい
としたら
そのために
今できることはなに?
そんなスケールで物事を捉えはじめると
あの人がこう言った、ああ言った
こんな顔をした、あんな態度だった
あんな風に言われないように、こんな風に思われないように
我慢しよう、言うのをやめよう、やるのをやめよう
もう少し儲けたい、ガツガツお金を儲ける!
ここら辺は出し惜しみしようとか?(笑)
そんなことがもうどうでもよくなるくらい
毎日、毎日「生きる」ことに貪欲に、がっつり生きないと
死ぬ間際に「あぁ良かった」なんて思えないような気がして。
ふと
ゲシュタルト療法のパールズが残したと言われる言葉が思い浮かびます
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。
私は私。あなたはあなた。
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。
長くなる僕のBlog記事
今回も長々と書きましたが最後まで読んでくださってありがとう
今回の死生学カフェでは「対話」ということについて得たことがあったので
次回以降にまた書きたいと思っています
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